いままで見えなかったものが見えるようになる。電車の中、スマホや本で俯くことをやめて、顔をまっすぐにして、窓の外の晴れを見てみると、何百回も通った道の、知らぬ顔が見えてくる。新築マンションのテカテカとした白、新しくなった駅前、どでかい拘置所、ふたつ並んだ緑のガスタンク。電車にのり、一度も降りたことのない駅で降りてみる。何百回も通り過ぎた景色のなかに入り、地図も使わず歩いてみると、普通に思えるものがなんだか楽しい。駅前のロータリーは人が少ないが、交通整備のおじさんが立っていたし、すぐにある交番には二人もおまわりさんがいた。見知らぬ政治家のポスター、やっているか分からない魚屋、セルフじゃないガソリンスタンド。まっすぐ歩くと、巨大な団地にぶつかった。川沿いにずらりと並ぶ団地をたどりながら、楽しく帰路に着く子供たちとすれ違う。

目的地に向かうのではなく、なんとなしに歩いてみる。見えてくる景色に素直になる。すると、今まで何をしていたのか!というくらい、見過ごしていたものが多いことに気づく。こころの余裕とは、こういうものか、こういいものか!

いままでの私は、ただ見たいものだけを見ていたようだ。気づかないうちに、見たくないものは見ていなかったわけだ。物理的には、視界に入っているはずなのに、心では見ていない。道徳的な話ではなくて、これは本当なのだ。何百回も通った道なのに、はじめてガスタンクが二つあることに気づいたという話は、文字通りの真実だ。

見知らぬ街の探索もしかりだが、生活の身の回りですら、新しいものが沢山見えてくる。少し前は蕾だった花が一斉に咲き、白い模様になっていたこと、季節の変わり目に一斉に鳴き出すヒヨドリたち、近所のスーパーで流れるおかしなテーマソング、買い物に訪れるひとたちの会話。見えるものだけではなく、聴こえてくるものも違ってくる。イヤホンで塞いだ世界を解放し、なんともない声から、変化や違和感をかぎとる。 そして私は、見えてきた見慣れた景色を、写真に収めることにした。カメラを持つと、さらに景色が見えてくる。写真に撮りたいと思わせるのは、今まで無視してきた景色や、今まで気 になりもしなかった街のゆがみとでもいうようなものであった。

街のゆがみとは、言葉として形容しがたい、唯一当てはめるなら、「やばい!」という景色だ。やばい、とても、「いい!」という感じ。この感覚的な反応で、街のゆがみを察知する。ゆがみと表現するのは、今まで知りもしなかった面白い現象だったり、なんだか不思議であり得ないようなセンスだったり、びっくりするような建物だったりを指しているつもりだ。(路上観察学会と近いことをしている。だけど彼らほど厳密ではなく、もっと気軽な感じだ) やばい!と感じる街のゆがみを意識してから、そんな景色に出会うたびにシャッターを切り、時にはそんな景色を探しに旅をしたりした。

せっかく見えるようになった様々だが、毎日同じものが見えているわけでもない。その日その日で同じ景色なのに気になるものが全く違うことがある。自分の内なる何かの偶然により、その景色と出会っている。街のゆがみをその都度ばったり発見している。昨日まで気づかなかったそれが今日は妙に気になる、そんな偶然だ。

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