生き物の時間は循環する。鳥の観察を続けていると、鳥は毎日同じことをしているように思える。生き続けるために食料 を探す。人間をも含む天敵から逃げる。縄張り争いのために、子孫をつくるために、ひたすら鳴き続ける。我が家を縄張りにしたキジバトも、毎日やってきては鳴いていた。季節が移ると、突然来なくなった。季節も循環しているのだ。また暖かくなると、キジバトのその落ち着きのある「デデーポポー」が聞こえてくるのだろう。季節は1年かけて循環していく。
今、一緒に生活している犬の時間も循環している。毎日ほぼ同じ時間に散歩に行き、ご飯を食べて、眠って、家の中をうろうろして、また眠って、散歩に行きご飯を食べて、そして眠る。ただ、少しずつの変化もある。小さいころにはぬいぐるみで遊んでいたが、歳をとった今はあまり遊ばなくなった。循環を繰り返しながら変わる。いきなりではなく、少しずつ、回りながら動いていく。
彼らは、生きることに目的を持たないようだ。何かを成し遂げたくて、何かを目指しながら生きているのは、人間だけのように思える。あえていうならば、人間を除く生き物たちは、毎日の循環を繰り返すこと自体が目的なのだ。そして、その循環は、生き物自身の生態(繁殖期や加齢など)や、自然環境の変化(季節だけではなく、地球温暖化や環境破壊も含む)によって、緩やかに少しずつ変わっていく。
循環すること、緩やかに変化すること。人間以外が多く暮らす地球にとって、大多数が循環しているのならば、何かに向かって一直線に進む人間が恐ろしく思える。そのようにして作られた社会の中で生きてきた私にとって、循環する生き物たちの姿は、最初は奇妙にそしてつまらなさそうに思えたが、観察を続けていくと、羨ましく思えてきたのだった。ぐるぐると毎日を繰り返す。そのこと自体が目的で、そのこと自体が生存というもの。彼らにとって、生きることに意味を見出すことは必要ないから、絶望もないのだろう。
何かをしなくてはいけない、何かをしなくてはいけない。突然休職になった私は、実家に戻り、そう考えては焦っていた。よく なるために何かしなくてはいけないし、この休みを無駄にしない様に、毎日何かをしなくてはいけない。医者は、責任 感や義務感が強い方なのですねと言った。確かにそうかもしれない。憧れの仕事に就いた私は、もっと出来なくてはいけない、もっと成長しなくてはいけないと、自分で自分を追い詰めていたような気がする。周りにそういった圧力をかけられていたわけでは全くなく、自分自身で理想像をつくり、こうならなければならないと考えていた。一人で堂々と働けるようになる、という目標に向かって真っすぐと、毎日を重ねていたのだ。毎日は循環するのではなく、その目標のためのすべての経験としての日でしかなかった。オズの国へと続く黄色いレンガの、その一つ一つのように、毎日は踏みつぶしては進んでいくものだった。仕事を始めてからというわけではなく、今までの人生、常にその考えだったと思う。何かにむかって進んでいく。その真っ直ぐさが自分の魅力だと解釈し、誇りにも思っていた。幸いにも、派手に失敗したことはなく、それは間違ってはいないと信じてやまなかったのだった。
そして、真っすぐ毎日を重ねて目標にたどり着くためには、毎日を意味のあるものにしなくてはならない。突然壊れたように生活が送れなくなった私は仕事を休職したが、休みのゴール=復職日という目標に向けて、どう休みを過ごそう?そのためには何かをしなくてはと、懲りずにこの考えを続けていたのだった。
何か意味があることをするために鳥の観察を始めたのが、結果的に、自分の考えを否定するに至った。鳥は、鳥の世界で生きる。循環する季節の中で、命を循環させている。私は鳥を見ながら、休職の日々を循環 させたいなと小さく思った。鳥のように飛ぶことより、鳥の生活をまねるほうが、まだ簡単だろうから。
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